そして毎日はつづいてく

I am always prepared to lie

ニートですらなくなる

ひたすら眠い。梅雨だからかもしれないし、薬を飲みまくっているからかもしれないし、ただ単に昨日の通院の疲れを引きずっているだけかもしれない。いずれにせよすこぶる眠くていろいろと鈍っている感じがする。たとえばゲームの偽垢のツイートをRTしてしまったりとか。いかんいかん。

さて(あくまで狭い)世の中ではミニスーパーファミコンが話題だ。名作21タイトルが7,980円で遊べるようになる。個人的に入れて欲しかったタイトルは「ワンダープロジェクトJ」で、めちゃくちゃはまって遊んだのを覚えてる。まあ「ベスト・オブ・ザ・スーパーファミコン」というべきハードに入れるソフトかと言われればそうではありませんねと答えるしかないのだけれど。
置く場所もないのでミニスーファミは買う気がないのだけれど、往年のゲームファンにはたまらないんだろうなと思う。夫も「がんばれゴエモン ゆき姫救出絵巻だけで5,000円くらいの価値がある」と言っていたし。

雨が上がって暑くなってきた。積極的にエアコンを入れていくスタイルを貫く。
明日からの時々雨を思えば買い物に行くべきだがどうしても今日行かなくてはならない必要性に乏しくてだるさが勝る。食パンもまだあるしコーヒーも明日の分くらいはある。堕落の一途をたどる日々である。社会復帰などできるはずもない。

いつまでもニートでいていいのかな。というかニートの定義が34歳までだから来年を過ぎたらニートですらなくなるのか。なんになるの?まあ人の存在は言葉によって定義されるものではないかもしれないけれども。

Eeny, meeny, miny, moe

タイトルに特段の意味は無い。

なんとなく思い立って id:wagahaiblog さんのブログを読み返していた。すごく面白い。どんどん読み進めてしまい、結局全部の記事を読み返すことになった。自分の読んだ本、観た映画、遊んだゲーム、体験した出来事などを、ちゃんと咀嚼して自分のものに落としこんでからアウトプットしているのがいいと思った。「(本当の)自分の感想を言える」力って絶対確かにある。小学校の読書感想文とかも本来的にはそういう練習の場になるはずだけれど、先生の技量と時間がきっと足りない。話が逸れた。とにかく、自分にはこういう力は無いなあと思ってしまった。羨ましい。ずるい(ずるくない)。

「感想を表明する勇気」という概念も確実に存在する。まだこのことについて詳しいとは言えないから、もっとこれを好きな人はたくさんいるから、アンチが多い分野だから、などなど、個人が感想を表明するには心理的ハードルがいくつもあるし、どれも高い。でもそれを気にしていたらいつまでたっても何も言えない人になってしまうので、どこかでえいやと言葉にしてしまうしかないのだと思う。言葉にしないといけない理由は別に無いといえば無いけれど、人に話すことでより鮮明になることがあるから話せる相手や場所があるのなら話したほうがいいのだと思う。誰かに反論されて傷つくこともあるかもしれないけれど、まあそれでも。

それにしても今日は梅雨らしい1日になりそうだ。雨こそ降っていないものの湿気が高くて雲が垂れ込め、街に気怠さが漂っている。

実は先日人伝てで、自分が8年くらい前に友だちのことをひどく傷つけてしまっていたことを聞いた。大変ショックを受けた。
わたしは「誰かを傷つけるときは傷つけようと思ったときだけだ」という信念を持っており、できるだけ誰も傷つけないし傷つけるときは自覚的にするということを徹底して生きてきているつもりだった。けれどまったく予期しない、「まさかそんなことで傷つくとは(という考え自体がダメ)」ということで傷つけてしまっていたのだ。思い返すと自分の中に「友だちだから大丈夫だろう」という甘えがすごくあったんだと思う。やってしまった。確かに超悪ノリだった。もう取り返しがつかない。わたしはその友だちのことが大好きだったのだ。かなしい。いやかなしまされたのは相手の方だ。わたしがかなしむのは筋違いというものだろう。悪いことをした。謝りたいけど、内緒で聞いたので謝れない。それに謝ったとしたって、それは多分ただの自己満足にすぎないので、意味が無いのかもしれない。

自分が誰かを傷つける(た)存在であるというのは苦しい。生きていれば必ずどこかで誰かのことは傷つけてしまっているものだと思うのだけれど、それでも誰の害にもならない自分でいたいと思ってしまう。益にならなくてもいいから害にもなりたくない。ただの数値で表されるような存在でありたい。PV数とかフォロワー数とかそういう意味じゃなくて。健康診断で体の中のいろんなことが数値に置き換えられていくわけだけれど、そういうイメージ。ニュートラルでそれだけではなんの意味も無いような。そんな風だ。

ごめんなさい

昨日友だちが来た。8時間くらいずっとおしゃべりをして帰った。そんなに話すことがあるなんてビックリしたけれど、大体は夫が話していた。夫がそんな風に饒舌になるのは珍しいのでふむふむと聞いていた。

それでいろいろ話を聞いてて思ったのだけれど。働いている人たちは偉いと思う。わたしは働けないからそう思うのだけれど、とにかく劣等感というか焦燥感というか生きててごめんなさいという感じが湧いてくる。取り残されてるし、追いつける見込みは一切無い。
どうしたらいいんだ、この先と思うけれど、思っただけで妙案が思い浮かぶわけでも無い。

悲観も様になるような美貌ならよいがそうじゃないので楽観に振れるものなら振れたい。
けど今日も薬を飲みすぎることくらいしかできない。

蜘蛛の糸

季節が夏に向かっていくのは寂しさがある。夏至を過ぎると日がどんどん短くなっていくからだ。夏が深まっていくということは夏が終わっていくということなのだ。とても寂しい。夏は好きな季節ではないけれど、それでも夏の日の朝のくすくす笑いたくなるようなワクワクした感じとか、夕方みんなの影が伸びてさよならする瞬間の切なさとか、夏にしか味わえないものがあって、それらが始まりと同時にしずかに終わりに向かっていくのは胸が締め付けられる思いがする。

人生もそういうものなのかもしれない。始まったらいつか終わる。終わりに向かってまっすぐに進んでいる。よいときも悪いときもきっとあるけれど、どんなときでもあくまで同じ直線上で同じように死に向かっている。急がなくてもね。

ネッツの海の孤島となる

あらゆるリンクを新しいブログに変更したのでここはネッツの海の孤島となった。もうツイッターでもシェアしない。だからあらかじめ知ってる人しかここにはたどり着かない。でもそのくらいでちょうどいいのかもしれないと思う。なにしろわたしは弱音を吐きすぎている。いいことを言ってるなって日もあるけれど(自画自賛)、まあそうだとしても。

それでも来てくれる人はありがとうございます。気まぐれでも暇つぶしでも嬉しいです。

なんというか、思惑って伝わらないものだなっていうのが最近の実感で。いろいろ試してみるのだけれど、そう思い通りにはいかないことが多くて。もう今更遅いんじゃないかって思うこととかもあるけど、でも「ここで今だと思うよ」というのは絶対確かだ。いつだって、そのここはこのここで、その今はこの今なのだ。そして何かをするには常に覚悟とか決意とか気持ちとかが要る。けれど肝心の気力が足りないよなあと思う。

気力が無いから人生は衰退していく。好きだったはずのことをやめたり、やるべきことを放置したり、延々眠ったり。夫に「生きていて楽しそうじゃない」と言われたことがあるけれど、痛いところつくよなあと思う。まあなんだろ、とにかく疲れた。

ブログとブログ

ブログタイトルの下に出るサブタイトル?「ブログの説明」というやつを変えた。昨日まで「拝啓 見知らぬあなたへ」であり気に入っていたが剽窃なのでいつか変えなければならないと思っていた。まあそれでいったらブログタイトルも借用フレーズだけれども。
なんとなく「いつでも嘘をつく準備がある」というフレーズが思い浮かんだのでその通りにした。「I am always prepared to lie」そう、わたしはいつでも嘘をつく準備がある。

それとは別に、もう一つブログを作った。見た映画とかやったゲームとか読んだ本とか、そういうのをまとめたり宣伝したりする場所にしたい。だから更新頻度は低いだろうけれど、まあぼちぼち更新していけたらと。

mah-1225.hateblo.jp

タイトルは今の自分のそのままだ。狭い世界を、どうにかいろんな作品に触れることで拡げられないかという実験。読者はつかないだろうけれど、まあ自分のためのまとめみたいなものだからね。

それはそれとして、今日は夏至だ。一年ももうすぐ折り返し。わたしは相変わらずだけれど、まあ半年前には入院していたことを考えれば退院して家事をこなせているという点においては進歩があったのかもしれない。スーパーポジティブに考えれば。

何度も飲み込むさよならを、いつか現実に口にしてしまうようなとき、そのことはきっとそばにいる誰かを泣かせたりするのだろうけれど、そのことで何かを躊躇したりするんだろうか。するよ。間違いなくする。悲しませたくない、泣かせたくない、寂しい思いをさせたくない。それは一瞬外的な要因のようだけれど、実際には内的な過程のような気がする。相手がどうしてほしくないかじゃなくて、わたしがどうしたくなかったかなんだ。つらい思いをさせたくない。そのことだけで、暫定的に生きていくという選択をするには本来的には十分なはずなのだ。

なのに頭の中は暗い想像力に支配されていて、ほんの少しのきっかけでそれは振り切れそうだ。雨のせいかな。きっとそうだ。

忖度しない(言ってみたかった)

自分というものの在り方とか生きていく姿勢とか世界との向き合い方とかが誰かを傷つけているのは明白でありそれなのに文章を書くのをやめないのはまさに自己中心主義の体現であってしかし何か自分の感情や意思を表明するときに実際に側にいもしない他人の感情を過度に忖度する必要もないと思うのでやめない。村上春樹は書いた。文章を書くことは自己療養へのささやかな試みであると。今でもそう思っているだろうか?

今現在暗い想像力に支配されているからといって過去の良かったことの記憶がそれに修飾されるわけではないと信じたい。楽しかった思い出や嬉しかった出来事はそのままの形で心に残っているはずだ。自分の人生は楽しく幸せであったとわたしは何度も繰り返しそう思う。それは何かによって歪められたりしない。確かに存在した幸福な日々をわたしは忘れたりしない。たとえ生きていくことを諦めたとしたってきっとそうだ。

さて晴天。よく晴れた昼の河原にはさまざまな人がいる。ランニングする人、釣りをする人、子どもを連れて遊んでいる人、ただ仲間と集まってお酒を飲んでいる人、買い物に行く人、ぼんやりと川を眺めてる人、寝ている人、鳩に餌をやる人、猫、猫、猫。それぞれがそれぞれに悩みや問題を抱えてそれでも生きているってすごい。太陽の光はまるで神さまの祝福みたいに街中に降り注ぎ、あらゆる人の生命を輝かせてみせる。こんな日は他人の生きる力の強さや命の尊さにほとんど目眩がする。

でも明日からしばらく雨が続くみたいだ。