そして毎日はつづいてく

I am always prepared to lie

hypnosis

必ず太ることが約束されたロイズのあのポテトチップチョコレートが家に2箱もある。夫が北海道に出張に行ったおかげだ。おいしい。何かを美味しいと思えることは素敵なことだななんて思いながら食べすぎる。このお菓子を考えた人は、偉い。手放しで褒める。今後何があっても一生許す。そのくらいだ。何か美味しいものを食べると、それを作った人(開発した人)を無条件で許し出す癖があるのだ。他にはたとえば金の食パンとか。

許すことは、その人に対する最大の賛美のうちの一つだと思っている。存在の全肯定。

ものやことがどんな風かによらず、存在するもの、起こることのすべてをあるがままに肯定していくスタイルがある。一瞬気持ち悪いけれどでも確かにそれはあって、多くの人をきっと救うことができる。何もかもを否定するより建設的であることは明白だし、多くの場合誰のことも傷つけない。そんなような生き方ができないかなって考えたりする。でも無理だなあと思う。元来がペシミスティックであるし、すべてを肯定することによって傷ついたりかなしまされたりする覚悟が足りない。そう、すべてをあるがままに肯定するとき、誰のことも傷つけない代わりに、本人はそれによって傷ついたりかなしまされたり確実にするはずだ。自分にはその準備ができていないなあと思う。

さて7月だ。でもニートにとっては何も変わらない。
現実世界に生きれていないから現実世界の暦なんて関係ない。あるとすれば21日にスプラトゥーン2が発売されるから早く時間が進まないかなとかその程度で。

自分が社会に対して何らの価値も創出していないことは苦しい。
ももう現実から見捨てられても構わないさって思う。眠って二度と起きたくない。

ゆっくり死んでく

もうこれはいいやと決めたことでも、それをしている人を見ると未練を感じたりする。それはもしかしたらただの嫉妬かもしれない。でもなんにせよ自分の精神衛生にあまりいい効果はなくて、目に入らないように工夫するしかないなあと思う。ソーシャルの時代ならではの悩み事だ。ミュートに次ぐミュート。それで解決するのかどうかは、分からないけれども。

メメントモリ。死を思え。

死を思うとき、それは甘美な誘惑として目の前に浮かぶけれど、実際はきっとそんなに綺麗事じゃない。苦しかったり痛かったりつらかったりかなしかったりするはずだ。
でも生きていくことには本当に疲れた。へらへらすることにも疲れたし、社会に適応しようと努力することも疲れたし、そもそも息をすることさえ疲れる。

誰かが生きたかった明日、というのは理屈としてはわかるけれど、そのことはなんの救いにもならない。でもたしかに安全圏から死を希求するのはセコイよなとも思う。

生きていくことこそが緩慢な死だとすれば少しは救われるのかもしれない。しかしそれにしたってあと40年は長いよな。

眠くて倒れる

今日は文字を書きすぎている。少し酔っ払ってるみたいな感じがある。ライティングハイ。文章を書いているときは苦しさから解放されるから、依存的になっているところがあるかもしれない。

それにしてもよい漫画に出会った。
岡崎に捧ぐ
感想はこちらを読んでね。
mah-1225.hateblo.jp


ここ数日ミスチルのことばかり考えている。マイベストミスチル25をいっせーのでやろうねと仲良くしてくださってるフォロワさんと約束したからだ。なんとか25曲に絞り込んだのだけれど、本当にこれで良いのかとか考えて、いやこの曲が入るのならこの曲も入るでしょとか、まあいろいろ。それでも半分くらいについてまとめて、力尽きた。まだあと一週間くらい猶予があるので少しずつ加筆して完成させねばならぬ。

そういうわけでミスチルを聴きすぎたので小沢健二で耳休めをしている。小沢健二の曲にはハズレがないのがすごいと思う。それで、すべて計算づくのように感じる。すさまじいことだ。

Twitterで弱音を吐かないと決めて数日経つんだけど、相当つらい。笑うところ。

レバニラの件で一つだけ疑問に思うことがあって。例の人がイケてなくて批難を浴びるのはまあ仕方ないとして。
その上で、なんでネット上の人たちって発達障害精神疾患の人たちにはものすごく優しいのに身体障害の人に対してはそんなに厳しいんだろうって。不思議に思った。

今日は疲れたのでおしまいです。

そこに愛はあるのか

昨日から話題になっていることについて考えていた。自分の中で結論は出たけど、燃えたら嫌なので書かない。
一つだけ言えることは、権利とは本来的には誰かの厚意や好意によって支えられるものでなく、その場にただあるもののはずだということ。

まあ、それはそれとして。
何かをよいと思うとき、他人がどう評価していようとよいと思える強い心があるといいと思う。たとえば水嶋ヒロ(本名は忘れた。斎藤なんちゃら)の「KAGEROU」ってわたしは割と好きだった。文章はびっくりするくらい下手くそだったし、あんなの八百長だろって今でも思うけれど、自分の身近なことを小説に仕立てるのではなく、ちゃんと「物語を作ろう」とする姿勢があってそれは好感が持てるものだった。内容はさっぱり覚えてないのだけれど。そういう具合に。
けれどなかなか他人の評価という軸からは逃れられずにいる。他の評価が低いものをよいと言い切るには勇気が要りすぎるし、リスクも高い。SNSで燃えるのも晒されるのも嫌だ。何であの人たちいちいち晒すんですかねっていう界隈がある。マウントに次ぐマウント。ゲー○ーの習性なんですか(笑)

さて、今日は曇りの横浜。三日ぶりに買い物へ行く。
すれ違う人すれ違う人に劣等感を覚えるから外出は苦手だ。誰もが自分よりは偉いし、自分よりはちゃんとしてるし、自分より社会に貢献している。それらは単なる思い込みだけれど、でも自分の中では確かな事実なのであって苦しい。

夫がわたしと一緒にいてくれる理由って何だろうって考える。今現在一緒にいることの夫側のメリットって何も無いと思っていて、じゃあなぜ離れずにいてくれるのかと言ったら、それは責任感なのか愛情なのか愛着なのか惰性なのか、まあそこらへんのどれかなんだろうなとかぼんやりと。でもそれが今後も続いていく保証は全然無くて、そしたらわたしはどうやって生きていけばいいんでしょうねっていうのが昨今の悩み事の大部分だ。でも考えれば考えるだけ馬鹿馬鹿しい。なぜなら生きていたいと別に思っていないのに生きていき方を考えなくてはならないからで、そこらへんどう折り合いをつけて生きていけばいいのだろうと思うと頭を抱えるしかない。

ニートですらなくなる

ひたすら眠い。梅雨だからかもしれないし、薬を飲みまくっているからかもしれないし、ただ単に昨日の通院の疲れを引きずっているだけかもしれない。いずれにせよすこぶる眠くていろいろと鈍っている感じがする。たとえばゲームの偽垢のツイートをRTしてしまったりとか。いかんいかん。

さて(あくまで狭い)世の中ではミニスーパーファミコンが話題だ。名作21タイトルが7,980円で遊べるようになる。個人的に入れて欲しかったタイトルは「ワンダープロジェクトJ」で、めちゃくちゃはまって遊んだのを覚えてる。まあ「ベスト・オブ・ザ・スーパーファミコン」というべきハードに入れるソフトかと言われればそうではありませんねと答えるしかないのだけれど。
置く場所もないのでミニスーファミは買う気がないのだけれど、往年のゲームファンにはたまらないんだろうなと思う。夫も「がんばれゴエモン ゆき姫救出絵巻だけで5,000円くらいの価値がある」と言っていたし。

雨が上がって暑くなってきた。積極的にエアコンを入れていくスタイルを貫く。
明日からの時々雨を思えば買い物に行くべきだがどうしても今日行かなくてはならない必要性に乏しくてだるさが勝る。食パンもまだあるしコーヒーも明日の分くらいはある。堕落の一途をたどる日々である。社会復帰などできるはずもない。

いつまでもニートでいていいのかな。というかニートの定義が34歳までだから来年を過ぎたらニートですらなくなるのか。なんになるの?まあ人の存在は言葉によって定義されるものではないかもしれないけれども。

Eeny, meeny, miny, moe

タイトルに特段の意味は無い。

なんとなく思い立って id:wagahaiblog さんのブログを読み返していた。すごく面白い。どんどん読み進めてしまい、結局全部の記事を読み返すことになった。自分の読んだ本、観た映画、遊んだゲーム、体験した出来事などを、ちゃんと咀嚼して自分のものに落としこんでからアウトプットしているのがいいと思った。「(本当の)自分の感想を言える」力って絶対確かにある。小学校の読書感想文とかも本来的にはそういう練習の場になるはずだけれど、先生の技量と時間がきっと足りない。話が逸れた。とにかく、自分にはこういう力は無いなあと思ってしまった。羨ましい。ずるい(ずるくない)。

「感想を表明する勇気」という概念も確実に存在する。まだこのことについて詳しいとは言えないから、もっとこれを好きな人はたくさんいるから、アンチが多い分野だから、などなど、個人が感想を表明するには心理的ハードルがいくつもあるし、どれも高い。でもそれを気にしていたらいつまでたっても何も言えない人になってしまうので、どこかでえいやと言葉にしてしまうしかないのだと思う。言葉にしないといけない理由は別に無いといえば無いけれど、人に話すことでより鮮明になることがあるから話せる相手や場所があるのなら話したほうがいいのだと思う。誰かに反論されて傷つくこともあるかもしれないけれど、まあそれでも。

それにしても今日は梅雨らしい1日になりそうだ。雨こそ降っていないものの湿気が高くて雲が垂れ込め、街に気怠さが漂っている。

実は先日人伝てで、自分が8年くらい前に友だちのことをひどく傷つけてしまっていたことを聞いた。大変ショックを受けた。
わたしは「誰かを傷つけるときは傷つけようと思ったときだけだ」という信念を持っており、できるだけ誰も傷つけないし傷つけるときは自覚的にするということを徹底して生きてきているつもりだった。けれどまったく予期しない、「まさかそんなことで傷つくとは(という考え自体がダメ)」ということで傷つけてしまっていたのだ。思い返すと自分の中に「友だちだから大丈夫だろう」という甘えがすごくあったんだと思う。やってしまった。確かに超悪ノリだった。もう取り返しがつかない。わたしはその友だちのことが大好きだったのだ。かなしい。いやかなしまされたのは相手の方だ。わたしがかなしむのは筋違いというものだろう。悪いことをした。謝りたいけど、内緒で聞いたので謝れない。それに謝ったとしたって、それは多分ただの自己満足にすぎないので、意味が無いのかもしれない。

自分が誰かを傷つける(た)存在であるというのは苦しい。生きていれば必ずどこかで誰かのことは傷つけてしまっているものだと思うのだけれど、それでも誰の害にもならない自分でいたいと思ってしまう。益にならなくてもいいから害にもなりたくない。ただの数値で表されるような存在でありたい。PV数とかフォロワー数とかそういう意味じゃなくて。健康診断で体の中のいろんなことが数値に置き換えられていくわけだけれど、そういうイメージ。ニュートラルでそれだけではなんの意味も無いような。そんな風だ。

ごめんなさい

昨日友だちが来た。8時間くらいずっとおしゃべりをして帰った。そんなに話すことがあるなんてビックリしたけれど、大体は夫が話していた。夫がそんな風に饒舌になるのは珍しいのでふむふむと聞いていた。

それでいろいろ話を聞いてて思ったのだけれど。働いている人たちは偉いと思う。わたしは働けないからそう思うのだけれど、とにかく劣等感というか焦燥感というか生きててごめんなさいという感じが湧いてくる。取り残されてるし、追いつける見込みは一切無い。
どうしたらいいんだ、この先と思うけれど、思っただけで妙案が思い浮かぶわけでも無い。

悲観も様になるような美貌ならよいがそうじゃないので楽観に振れるものなら振れたい。
けど今日も薬を飲みすぎることくらいしかできない。