そして毎日はつづいてく

I am always prepared to lie

淡々と死んでいきたい

今日も今日とて暑い一日だ。よく晴れた川沿いは日差しを遮るものもなく、その強さに真夏がじりじりと迫っているのを感じる。声を上げる野球少年たちを傍目に自転車を漕ぐ。吹き抜けていく風がまだ涼しくて心地よい。「次も水のそばに住みたいなあ」と夫が言う。「それはそう」とわたしは返す。何度も繰り返してきたやり取りだ。そのくらい水の力はすごい。

なにかについて話をするとき、そこには「今後も生きていく」という前提があって、「将来にわたって生きている」という想定がある。死ぬと思って転居先の話はしないし、生きていないはずの将来の設計なんてしない。そのことがひどく苦しいことがある。

ミスチルは「淡々と死んでいきたくはない」と歌ったけれど、わたしは淡々と生きて淡々と死んでいきたい。自分が生きていることで誰かに影響を与えたりしたくないし、自分が死んでしまうことが誰にとっても取るに足らない瑣末なことであってほしい。名前の無い歯車でありたい。
まあ心配しなくても誰もにとってどうでもいい存在であるのは確かなので、問題ないのだけれど。

SENSE

SENSE

ところで遅まきながら齢33歳にして今年から日焼け止めを使うことにした。色が割とすごく白くて、それがとても嫌で、「日焼けしたら日焼けしたさ」と今までは特段対策を取ってこなかったのだけれど(それでもほとんど室内にいるので日焼けしない)、なんとなく今年は白さを保ちたいという気持ちが強い。仕事を休んでいるくせに日焼けすると、遊んでいるみたいに見えるというのもある。人の目を気にしてしまうことってどうしてもやめられない。

淡々と生きて死にたいというのとは相反するけれど、誰かにとっていいなと思われたい気持ちをなくすことは難しい。こんな文章を書いていたって、たとえわたしが意識していなくても、誰かになんとなく共感してもらえることを期待しているのに違いなくて。まあそうと言うよりはこれらの文章はわたしが死んだ後に家族がわたしを思い出すときに使ってくれたらと思って書いているので、半ば遺書に近いのだけれど。

人はいつかいなくなった人を思い出せなくなるんだろうか。
たとえばわたしは父を亡くしてもうすぐ7年経つけれど、今でも夢に見るし折に触れて思い出すしもう会えないことを思い知って胸が苦しくなることもある。わたしが死んだら、じゃあ少なくとも7年間は誰かが思い出してくれるかもしれない。

そもそも人は死んだ人を思い出したいのだろうか、思い出したくないのだろうか。そんなのもちろん関係性によるし、一概には言えない。でももし思い出したいと思うとき、こんなブログが役に立ったりするんだろう。