そして毎日はつづいてく

I am always prepared to lie

6月と手紙とコミュニケーション

夜中豪雨に見舞われる。けれどわたしたちは深く眠っているからそのことに気付かない。朝起きてゴミ捨てに出るとアスファルトが濡れていて、雨上がりの匂いがする。空気は少しひんやりとしていて、このところの暑さを和らげてくれるようだ。

6月は誰だってたいてい調子が乗らないものだ。特別なことじゃない。湿気は眠気を誘発するし、低気圧は頭痛を引き起こすし、全体に漂う陰鬱な雰囲気には誰だって参ってしまう。祝日も無い。まあそういうわけで、具合の悪さは諦めて、じっと耐えるか早々に布団に潜り込んでしまうかしかない。深刻ぶってみても自分も周りも疲弊してしまうだけだ。ヒュプノスの加護を受けて安らかに眠ろう。

そうして眠っていると、ポストからコトンと音がする。犬が吠える(しつけに失敗している)。わたしは起き上がって玄関に向かう。自分に宛てた手紙が届いている。こんな嬉しいことが起こる。
今文通をしている相手が数人いるのだけれど、誰から手紙をもらってもとても嬉しい。なんで手紙をもらうことがそこまで嬉しいのかわからない。中には普段twitterでやりとりをしている人もいるのに、手紙が届くと久しぶりに話をするような懐かしい気分になる。

手紙を書こうとしてくれた気持ち、文章から感じられる親密さ、肉筆の懐かしさ、etc...... そうしたものを相手も感じてくれてるのならいいなと思う。昨日「嫌いは好きより早く伝わる」と書いたけれど、好きだってちゃんとすればちゃんと伝わるはずなのだ。

人生って常にラブレターを書くみたいにして生きていけたらどうかなと思うことがある。好きな人にただ好きと伝えるためだけに、いろいろな言葉を選んで、うんうん考えて、なんとか書き上げて、ものすごい覚悟をして渡す。その姿勢で人生に臨めたら…… いや、疲れちゃうか。それに恋に破れるように人生に正面切って振られてしまったらもうどうしていいか分からなくなってしまう。うん。やめよう。もっと適当でいい気がしてきた。

さて、様々な手段でわたしたちは認められたがる。手紙をもらうと嬉しいというのもそれと似ているのかもしれない。

誰かにとっていいなって思われたいっていう気持ちはどうしてもなくならない。自分が好きな人には自分のことも好きになってほしいと思ってしまう。
コミュニケーションでうまくいかないなと思うのは、「好き」とかの度合いに温度差があって、そこの折り合いがつかないことがあることだ。普通だとやりとりするうちに適温に落ち着いていくものだけれど、どうしてもいい具合に落ち着かないことがある。そうすると、人間は心理的な平衡性を保ちたいものだから、一方は解消されない感情や行動の不均衡さに不満をためたり傷ついたりする。傷つく立場のときもあるし、傷つけてしまっていることだってあるだろう。そこにナイーブになりすぎると誰ともコミュニケーションを取らないという方策をとることになる。それはやっぱり、寂しいよなと思う。