そして毎日はつづいてく

I am always prepared to lie

眠って二度と起きたくない

犬を洗った。ひとつきに一度洗うことにしているが、これが非常に億劫で、重い腰がなかなか上がらない。洗うのはさほど苦でもないが、乾かすフェーズが非常に面倒くさい。まず毛量が多くてなかなか乾かないし、犬は決して協力的になってくれはしない。なだめすかして体位を変えさせ、なんとか乾かすのである。夏場など汗だくになってしまう。けれど洗わなければならないからまあなんとかして洗って乾かす。

洗いたての犬はとてもよい匂いがする。さらさらになった毛は素晴らしいさわり心地になる。そうした犬を抱き寄せて匂いに包まれて眠ることは、この世の幸せな瞬間ベスト10に入るのではないかと思えるほどだ。しかし人間の満足とは裏腹に、犬は風呂に入れられたことで不貞腐れているのである。不満げな上目遣いでこちらを見つめてくる。撫でてなだめてやる。そうしているうちに眠ってしまう。

最近は本当によく眠る。他にできることもないし、眠っている限りにおいては平穏に過ごせるからだ。入院中もよく昼寝をしていたなあと思う。薬でぼーっとしているせいもあるだろう。眠る前にはいつも二度と起きたくないと思う。けれどその願いは決して叶わず、必ず目覚めがあって、わたしは現実と向き合わなければいけなくなる。

昨日、なんとなく入院中のTweetとかブログ(今は非公開)を読み返していた。その当時の心情がありありと思い出されてなかなかに苦しいものだった。そしてその当時もさまざまな人に支えられて日々をやり過ごしていた事がよく分かった。人に恵まれているというのは、本当にそう思う。ありがたくてもったいないことだ。

Twitter上のやりとりなんていうのはたいてい毛づくろい的なコミュニケーションでありそれを好ましくないものとする向きもあるけれど、そういった毛づくろいは少なくとも自分にとってはかけがえのない滋養であり深く染み込むものであると感じる。なんでもない挨拶を交わすこと、どうということでもない話題で盛り上がること、好きなものについて語り合うこと。そういったことが、自分の入院生活においては大きな力となった。Twitterが無かったらあの半年間はもっと寂しく惨めな日々になったことだろう*1

さて。
死ぬことを強く意識した時点で少し死んでるんだと、最近は感じる。そうして自分が少しずつすり減って、もういないのと同じじゃないかと思うこともある。そうであれば改めて死ぬ必要も無いのかなと思ったりもする。いや状態として確定させるべきなのかと考えたりもする。

誰か親しい人や好きな人が死ぬとかなしい。これは間違いのないことだ。何度も何度も思い出すし、その度に泣いたりする。
でも何かを決断するときに、周りのことを考えすぎても仕方ない。心はもっと自由なものだ。

わたしは、自分の周りにいてくれる人たちの心の強さを信じている。特別に信頼している。だからきっと何かを選択するときに振り返ったりしないだろう。

*1:「あの」と使い始めたらおセンチになってる証左だそうです